日本人でよかった

自分は日本が嫌いでした、でも今は日本人でよかったと心の底から思います。書籍の転用ですが、よければ見てください。

大東亜戦争と東京裁判 ―戦後思想を問い直す― ① 講師 田中正明先生 ※昭和58年に書かれたものです。 

大東亜戦争ビルマの独立

私はインド、その他東南アジアに旅行をいたしますが、あるときインドの初代大統領ラダ・クリシュナンさんがこういうことを言われました。 

大東亜戦争で日本は負けてまことにお気の毒である。しかしその戦争のおかげで我々インド民族は独立が三十年早まりました。そのことはインドだけでなしにビルマインドネシアもフィリピンも東南アジア諸国はみな同じだと思います。

 そういう話をされたのでございますその一つの例としてビルマ独立運動のお話を申し上げます。ビルマのネ・ウィン大統領は一昨年、日本から民間人六名の方をお招きになって、それぞれにビルマの最高勲章であるオン・サン旗章を授与されました。オン・サンはビルマ初代の首相で、この方は ビルマ独立運動の父といわれている方ですが、そのオン・サンの名前をとったオン・サン旗章を六名の方に授与されたのであります。独立記念日には一人の日本の婦人が国賓として迎えられ、ネ・ウィン大統領の側に座って式典に参加しました。国外の大公使たちはびっくりしまして、いったいこの婦人は何者なんだろうか。またこの六人とビルマはどういう関係なんだろうかということが話題になりました。日本の新聞はまことに残念ながら、日本が東南アジアに迷惑をかけたとか、反日運動が盛んであるとか、日本が軍事大国になることを恐れている・・・・という報道や記事はいっぱい出すのですが、こういうお話は報道しません。

 その六人の方々は、実はビルマが独立するまえにビルマ独立運動を助けた人々なのです。みなさまはご存知だと思いますが蒋介石重慶へ立てこもった時に、ビルマルートというのが出来まして後ろの方から兵器弾薬やその他あらゆる戦争物資、顧問団などが送られました。この道路がビルマルートであります。雲南省を通って四川省へ行く非常な険阻なみちでございますが、この道を毎日、自動車が数珠つなぎになって運搬していく。いくら日本の飛行機が重慶を爆撃したり、或は港、港をおさえても、沿岸を封鎖しても、蒋介石は負けたとは言わない。ますます抗戦意欲を強めるばかりです。だからビルマルートを何とか阻止したいという考えが、強く当時の日本の軍部の中にあった。もうひとつのルートに今の北ベトナムハノイから重慶に通ずるいわゆる雲南ルートがございます。この二つが開いているために、蒋介石重慶政権は命をつないで、頑固な抵抗を続けたのであります。

 このビルマルートを封鎖するには、独立精神を持った気概のあるビルマの青年達を日本へ脱出させて、これに軍事訓練を与え、革命意識を強めて、ビルマ独立運動をやったらどうかというひとつの謀略がありました。

 ラングーンには古くから海軍の将校で国分正三という方がおりまして、奥さんが歯医者をし、ご本人は柔道を教えておった。そこへビルマの青年達が集まってくる。とにかくアジアで独立をしているのは日本だけで、しかもその日本はロシアに勝った。青年たちは、日本に頼って、日本から武器を手に入れビルマの独立を計画します。話は少しさかのぼりますが、ビルマは偉大な啓蒙思想家、ちょうど明治維新吉田松陰のような方ですが、オッタマ大僧正という方がおられました。オッタマ大僧正は日本に参りまして、最後には東大の印哲の教授として、約半年程、日本に滞在いたします。彼が日本に来た目的は、なぜ日本がロシアに勝ったか、それを知りたい。で、いろいろ研究した結果、明治天皇という一人のみかどを中心にして、日本青年が一致団結したからであるという結論に達しました。我々には天皇はないけれど、ブッダ仏陀)がいる、このブッダを中心にして団結するならば、ビルマは必ず独立が出来る、そういう本を書いた。これが『ジャパン』(日本)という本でございます。これに刺激されまして、青年たちが続々と立ち上がりまして、「タキン党」という党を作ります。その青年たちが国分正三の下に集まってきたのです。そのうち優秀な青年三十人を日本に脱出させたのです。その三十人の青年に海南島で約半年間軍事訓練をほどこします。そして大東亜戦争(太平洋戦争)が始まる前夜、これをビルマに投入します。

 この三十人組が中心となって旋風のようにビルマ独立運動が巻き起こるのです。ビルマには古くから伝説がございまして、ビルマ王朝最後の王子が行方不明になっているが、その王子が白馬にまたがって東方からやってくる(その王子のことをボーモージョ、雷帝と訳していますが)その王子がビルマ民族を解放してくれるのだという伝説が昔からあるのです。その伝説をたくみに利用して謀略をおこなった機関―南機関といい、鈴木大佐という人が中心でございます。その南機関員たち十数人が寝食を共にして海南島で軍事訓練をするわけです。ある者は鉄道、電信等を爆破する謀略訓練をほどこされまして、やがてこれをタイからアラカン山脈を越えてビルマに投入します。大東亜戦争が始まり、飯田祥二郎中将の率いる第十五軍がビルマに入りますがその前に今申しました、三十人組を中心とするビルマ独立義勇軍ビルマに入るわけです。

 鈴木大佐はボーモージョの伝説を聞いて、自ら白いガウンを着て、白い馬にまたがって独立義勇軍の先頭に立って入ってくるのです。伝説と実話とが一緒になりまして、ビルマ独立の気運はうしおのごとく高まり、全ビルマを風靡します。孔雀の旗をおし立てたビルマ独立義勇軍は、三十人が三百人となり、三千人となり、三万人となってふくれていくわけです。ビルマ戦争の初期にはそういう時代があったわけでございます。その義勇軍の先頭に立ったのが、オン・サンという将軍でございます。将軍といっても、いま言ったように日本で教育をうけた三十代の若い青年でございまして、それが将軍の位を指揮するのです。したがってこのオン・サンがビルマの父といわれて、今日ビルマに行きますと紙幣でもコインでもまたあらゆる公共の建物にはオン・サンの肖像が掲げられています。ネ・ウィン大統領もその三十人組の一人であります。オン・サンは不幸なことに最初の内閣を成立せしめ、イギリスから独立を勝ち取るのですが、機関銃で撃たれて暗殺されてしまいます。そのオン・サンの後を継いだのだがネ・ウィン首相(のちの大統領)です。そのネ・ウィンが国賓として迎えた六人というのは南機関員で、寝食を共にし、苦楽を共にして、ビルマの独立を語り合い、励ましあい、お互いに切磋琢磨しながら戦った日本の軍人です。精々大尉とか中尉クラスの青年将校です。或は民間人も入っております。ネ・ウィン大統領はこの人々の恩を決して忘れはしませんでした。ビルマが独立できたのも、我々三十人組を訓練し、我々に戦闘力をつけ、また英軍をビルマから追放してくれたおかげである。戦争に日本が負けたとき、その武器のほとんどを我々にくれた。それによって、我々はイギリスと戦い勝ったのだという感謝の意をこめた、オン・サン旗章という最高勲章を贈ったのであります。さきほど申し上げましたネ・ウィン大統領のすぐ側に座った老婦人というのは鈴木大佐の奥さんでございます。鈴木敬司大佐は終戦後まもなく亡くなりますが、その奥さんを大統領は国賓として招き、自分の側に座らせ、さながら母に仕えるごとく、もてなしたということであります。